安心・安全を担うソフトウェアを実現するには

東北関東大震災で被災された皆さまにお見舞い申し上げます。

このブログで自分自身の業務ドメインについてクリティカルデバイスのソフトウェア開発を行ってきたと書いてきました。クリティカルデバイスとは医療機器のことです。これまで、ブログの記事投稿や外部における発表において自分が所属する業務ドメインを明らかにしてこなかったのは、サラリーマンであるにも関わらず、25年間務めている現在の組織のノウハウを漏らしているかのようなあらぬ疑いをかけられるのがいやだったからです。

しかし、今回の震災に東京地区で遭遇し、さまざまな苦難に多くの日本人が自分ができることを考えているのを見て、自分が社会に対してできるのは医療機器ソフトウェア開発で得た経験により、安心・安全を担うソフトウェアはどうすれば実現できるのかについて情報を発信することだと思いました。

もちろん組織内の情報を外に出すことはこれまでも、これからもありませんが、組織の利益以上に、社会への貢献について自分ができることを考えていきたいと思っています。

さて、東京電力福島第一原子力発電所の事故を見て、多くの方達は「なぜ、今回のような事態が起こることを想定しなかったのか」と思われているでしょう。

私は、商品やサービスの価値には「顕在的な価値」と「潜在的な価値」の両面があると思っています。「潜在的な価値」は当たり前品質と言い換えることもできます。できていて当たり前なので、何かのアクシデントが起こると「潜在的な価値」がとたんにクローズアップされます。

世の中の多くの商品やサービスでは表面に表れている「顕在的な価値」、例えばカタログに掲載されているようなスペックに消費者は着目しますが、「顕在的な価値=当たり前品質」に着目する人はそう多くないと思います。

しかし、私のような医療機器のドメインや社会インフラを実現している産業ドメインでは、この「顕在的な価値=当たり前品質」を軽視することは絶対にできません。なぜなら、そこに問題が起こるとお客様に多大な迷惑をかけたり、最悪の場合、健康被害をもたらしてしまう可能性があるからです。

そうならないために、私たちはリスク分析をし、ユーザーリスクを軽減するための対策をハードウェアやソフトウェアにインプリメントするのですが、それでもさまざまな問題は発生します。そして、リスクをコントロールすること以上に重要なのは、問題が起こってしまったことに対する原因の追及と同じ過ちを繰り返さないように是正し、予防する処置を行うことです。

エンジニアは顕在的な価値を高め、期せずして発生してしまった問題に対しては冷静に再発防止の対策を粛々と実行しなければいけません。

日本のエンジニアは長い間同じ商品開発に携わることが多いため、安全や信頼を実現するためのノウハウが技術者個人に蓄積しやすいと感じています。この状況は開発するソフトウェアの規模が小さく、複雑でなく、かつ技術者の安全実現への熱意が強い場合には有効に働きますが、実行コード行数が30万行を超え100万行以上の規模になったソフトウェアでは有効ではありません。

ソフトウェア開発プロセスを組織的に管理し、品質マネージメントシステムのもとで是正、予防も実施していかなければいけません。長い時間エンジニアの熱意や責任感と職場内で継承されてきたノウハウで安全を確保してきた日本のプロジェクトには開発プロセスで品質を確保するというアプローチは受け入れがたいことでもあります。(建前では受け入れつつも本音では役に立たないと思っている者は多いと思っています)

習慣化してしまった日々の仕事のやり方はそう簡単には変えることはできません。そして、プロセスアプローチを強固に推し進めてきた欧米の製品よりも、日本製の製品の方が品質が高いというケースも少なからずあります。しかし、その状況は長くは続きません。ソフトウェアの規模や複雑性が増大し、機器同士がネットワークでつながるようになると、これまでうまく回ってきた日本的なアプローチは徐々にほころびを見せてきます。

しかし、だからといって技術者の安心・安全実現に対する熱意なしに、クリティカルデバイスの品質確保はできないと思います。日本的なアプローチと欧米的なアプローチの両方を推し進めることで、安心や安全が確保できるのです。

話しは変わりますが、2011年2月10日に「ソフトバンク 医療分野におけるスマートフォン活用に関するセミナー」、2011年2月28日日経ものづくり主催の「医療機器開発の勘所」セミナーに参加しました。

前者は、医療分野において、iPadiPhone などの IT機器を導入して、実際に活用している例を、後者は、グローバルマーケットにおいて日本から世界に医療機器を開発・販売していくためにはどのような責務を果たさなければいけないのかについてのレクチャーでした。

IT(ソフトウェア開発の意味も含む)は確実に医療の世界をより便利に、より効率的にすることができると感じました。しかし、使いやすさ、便利さといった顕在的な価値の後ろで、潜在的な価値=当たり前品質を維持し続けなければ、機器やシステムを安心して使うことはできません。

安全や安心にはコストがかかります。私たちは安全や安心のためにそのコストを負担しますが、特に日本人は消費者として厳しい目を持ち、その上で安全や安心に対するコストを支払います。安全や安心にかかるコストを値切ったりすることは少ないと感じています。

だからこそ、安全や安心を担うソフトウェアを開発しているエンジニアはその期待を裏切らないようにいい仕事をしなければいけないのです。私は、最近の技術者は納期のプレッシャーに負けて、安全や安心に対する責任から逃げたいと思う弱い気持ちが大きくなっているように思えてなりません。

そういうときに、私は「何のためにこの仕事をしているのか」ということを技術者に問うようにしています。消費者の皆さんには無理なお願いかもしれませんが、日頃、何事もなく動いているシステムを見たら、「これはどうやって動いているのだろうか」と気に掛け、何事もなく動いて役に立っているシステムを見たら、それらのシステムを作り上げた誰だか分からぬ技術者達にほんの少し感謝の気持ちを持って欲しいのです。

そのほんの少しの感謝の気持ちが技術者のモチベーションを高め、安心・安全をさらに強固にするためのインセンティブになると思っています。

私自身はそのようなシステムを実現するために、日本の技術者やプロジェクトが何をすればよいのかについて、自分自身の25年の医療機器ソフトウェア開発の経験を元に情報発信していこうと思います。

『課外授業 ようこそ先輩』で湯浅誠さんが言いたかったこと

深夜のサッカーの試合を生で見る元気がなく、朝起きてから結果を見ようと思ってテレビをつけたらたまたま、NHKで『課外授業 ようこそ先輩』をやっていてついつい見入ってしまった。

【番組ホームページより】
さまざまなジャンルの第一線で活躍する著名人が、ふるさとの母校を訪ね、後輩たちのためにとっておきの授業を行います。授業は通常2日間、リハーサルなしの真剣勝負です。内容や仕掛けは、先輩によって実に多彩。人生で得たこと、創造の秘密、専門分野の面白さなどを、独自の方法で解き明かします。そんな先輩の思いがこもった授業を、子どもたちはどう受け止めるのか?そこには毎回、思いがけない発見と感動があります。1998年に番組がスタートして以来、これまでに400人を越える先輩が、母校の子どもたちに熱いメッセージを送ってきました。

今回の先生役の有名人、どこかで見たことがある。芸能人ではない。誰だっけと思い出していたら、やっと思い出した。2008年12月社会問題化したいわゆる「派遣切り」への緊急対策として、開設された「年越し派遣村」の村長、湯浅誠さんだ。

かつて、湯浅さんが有名になる前、TBSラジオの夜PM10:00からやっていたアクセスのゲストで来ていたときに反貧困ネットワークでの活動について聞いたことがあった。

この人の学歴がすごい。
1988年 武蔵高等学校 卒業
1989年 東京大学教養学部文科I類 入学
1995年 東京大学法学部 卒業
1996年 東京大学大学院法学政治学研究科 入学
2003年 同大学院博士課程 単位取得退学

詳しくは Wikipedia を見ていただきたいのだが、以下の一節だけ読んでもすごい経歴だ。
東京都小平市で、新聞社勤務の父と小学校教諭の母の間に生まれる。1988年に武蔵高等学校卒業後、1浪して東京大学に入学。児童養護施設のボランティアや映画鑑賞にのめりこんで授業にはあまり出席していなかったが、5回生の夏に一念発起し学者を志して勉学に集中、一時的にボランティア活動から離れた。
さてさて、肝心の『課外授業 ようこそ先輩』の内容に進もう。


2011年1月30日 「目を向ければ 見えてくる!?」 東京都小平市立小平第十三小学校
湯浅誠 (「反貧困ネットワーク」事務局長)

まず、最初の授業はクラスのみんな(たぶん6年生)に自分の宝物を持ってきてもらい、どんな宝物なのかを説明してもらっていた。ある子供は地球儀をある子供はオカリナや写真をある子供は水筒(病気で頻繁に水分補給が必要とのこと)を持ってきてみんなに説明する。

この授業は何のためにやっていたのか。この授業には湯浅さんの明確な意図があった。それは「他人には分からなくてもその人にとっては大事なもの」が存在し、なぜ大事なのかはその人にしかわからないということに気がつかせるということだった。自分では分かっている自分の宝物の意味が他人には分からないことに気がつかせ、一見理解できない他人の宝物が大切な理由を聞いて理解させる。

つぎに湯浅さんは3人の大人の方を一人ずつ呼んで、クラスのみんなに「この人は一体誰か」を当てされる。3人とも学校で働いてる方だ。

種を明かせば、一人目は給食のおばさん、二人目は校庭の芝部を手入れする芝生キーパーさん、三人目は警備員さん。

一人目の給食のおばさんはいつも割烹着を着てマスクをしているため、誰も当てられない。警備員さんは多くの子供が当てた。

この授業の意図は制服を着ているとその人の制服から想像される役割だけに注意をとらわれてしまうということを示したかった。制服を脱いだ一人の個人には役割から離れた個人としての人格があり、それに気がつかなければいけない、その人個人に関心を持って欲しいと湯浅さんは言いたかったのだ。

三つめの授業は、班に分かれて普段気になっている街の人達にその役割ではなく、その人の人生を聞いて見ようというもの。社会科見学はその人やその施設の役割を聞くが、これは社会科見学ではなく、一人一人の人格に向き合ってみようという授業。

農家のご主人に宝物は何かと尋ねると「それは奥さんかな」と答え、奥さんを呼んできて奥さんにも同じ質問をすると「このおじさんよ」と答えた。ご主人は「僕らには子供がいないので、そう答えるのかもしれない」「君たちのお父さん、お母さんに聞いたら、宝物は君たち」と言うかもしれないねと語った。

モヒカンヘアの和菓子職人は、若い頃バンドをやっていて今でも音楽が好きで、今は和菓子職人を継いでいるのだと語り、交通指導をしてくれているボランティアのおじいさんは戦時中に使っていた飯盒を宝物として見せてくれた。

授業の最後に湯浅さんは自分の座右の銘「見えないことは無視につながり、関心は尊重につながる。」を黒板に書いた。

日本の貧困問題に対峙することで生まれたポリシーかもしれないが、自分の周りでも起こりうることのように感じた。不具合を起こすソフトウェア、調子を崩すエンジニアの気持ちが見えない、いや見ようとしないことで無視することにつながり、直近の納期や売り上げだけを気にして行動する人達があまりにも多くないだろうか。

湯浅さんが言いたかったのは、偏見の排除だと思う。昔、妹尾河童の『少年H』を読んで、戦争中に威張っていた学校の先生が戦争が終わったとたんに180度態度が変わった部分を読んで、制服の威厳を笠に着るのは絶対にやめよう、自分自身の内面、中身で勝負しようと思った。

ようするに肩書きが外されたときでも、態度を変えられないようにしよう、態度を変えるような人と接するときは注意をしようということだ。

『課外授業 ようこそ先輩』を見て、見えないものを分からないといってそのままにしない、その人の制服、役割ではなくその人個人に関心を持ち尊重することの重要性を再認識した。

機能安全の意味がわかった(IEC61508とISO26262の最新情報)

sessamian2011-01-19

クルマ関係の仕事をしている技術者は日経エレクトロニクス 2011.1.10 の特集記事『クルマの電子安全始まる-ISO26262を越えて-』を必ず読んでほしい。

機能安全規格IEC61508と自動車の電子制御系に関する安全規格ISO26262の概念について詳しく解説されている。

自分自身、機能安全ということばがどうしてもすっきり理解できずもやもやしていたが、この記事を読んですっきりした。

だいたい、「機能」と「安全」の結びつきが直感的にイメージできない。Safety は functional ではない、安全は機能的に実現するのではなく、あらゆる使用環境、ハザードを想定してシステム全体で確保するものだと思っていたから、どうしても機能安全(functional safety)ということばがしっくりきていなかった。その疑問点をこの特集記事はクリアにしてくれている。

この記事がいいところは規格の内容を解説するだけでなく、規格の策定メンバーにインタビューして規格が作られた時代背景や思惑にまで突っ込んで書かれてところだ。

日経エレクトロニクス 2011.1.10 p44 機能安全、素朴な疑問より引用】

機能安全(functional safety)の「機能」とは、制御対象(プラント、EUC: equipment under control)や制御器(コントローラ)を監視する安全装置の役割のことを意味します。通常、安全装置(安全関連系(SRS: safety-related system)にはコンピュータが使われ、いざ制御器に故障などが発生した場合は、このコンピュータが制御対象を停止したり、ユーザーに警告を出したりします。安全装置があることによって実現されているこうした安全性のことを、特に「機能安全」と呼んでいます。機能安全とは、いわばマイコンなどを使った安全装置による安全対策といえます。なお、安全性そのものは、こうした電子的な安全装置の付加によって担保するだけでなく、危機源(ハザード)そのものの設計上の除去(本質安全)や、危機構造的なフィルセーフ機構(構造安全)などによっても担保するのが一般的です。機能安全によって実現できる安全性は、包括的な安全性の、あくまでも一部でしかないといえます。IEC自身も機能安全について、「Functional safety is the part of the overall safety」と明記しています。

【引用終わり】

この特集記事には IEC61508策定時の裏話が書かれている。 IEC61508 はバックグラウンドとなる理論的体系や支柱がほとんどないまま、1990年代初頭に「ともかくPLCなどの電子的な安全装置に関する規格を作らねば」という欧州企業の意向によって策定が始まったというのだ。そして、根拠は後付けでいいからというスタンスが強かったという。何からの裏付けや蓄積を経た上で策定される通常の規格とは真逆の順序で作られたらしい。

機能安全規格のIEC61508と特に強く批判してきたのが、米国を中心とする安全の専門家やソフトウェア工学の専門家だという。ソフトウェアの安全設計の権威であるMITのナンシー・レブソン教授がIEC61508に批判的だというのは知っていたが、米国の多くの専門家が批判的だというのは知らなかった。

IEC61508に対する批判は主に次の4点に集約されている。

  1. 安全性の規格でありながら、定量的な故障検出率といった確率論に重きを置きすぎている。
  2. 故障率低減のための複雑な機構の導入が、かえってシステム全体の安全性を損なう危険性に配慮していない。
  3. 部品ごとに安全性の認証を与え、認証を得た部品の採用によって安全を担保しようとしている。
  4. バックグラウンドとなる理論的体系や支柱がなく、規格が膨大で分かりにくい。

あー、それだ。そう、何年も前から自分はこの規格を読んでいてそう思っていたのだ。特に3つめの部品単位での安全性の認証のところ。日経エレの進藤記者、分かりやすく明確に書いてくれてありがとう。この記事読んでいて「がってん」ボタンを何回も押してしまったよ。

さて、IEC61508はそもそも、化学プラント、原子力産業、工作機械などの産業用機器を対象に作られた。だからそこ、ハザード事象が発現したときに、安全装置があることによって実現されているこうした安全性のことを「機能安全」と言ったのだ。

機能安全の説明でよく踏切の例が挙げられる。踏切ではなく高架橋を作ることによって通行者の安全を確保するのが本質安全で、踏切という安全装置によって安全を確保するのが機能安全。

ちなみに、自分がこの機能安全ということばに違和感を覚え続けていたのは、日頃から安全の確保はハザード分析やリスク分析から始まるということが当たり前だと思っていたからだ。

システムを取り巻く環境にあるハザードやリスクを分析して、それらのリスクを受容できるまで低減するのことが重要と教わってきた。リスクを軽減するための手段は、設計上の対策かもしれないし、表記上の対策かもしれないが、手段が先になることはない。

機能安全の規格は安全装置によって安全を確保する狭義の Safety という意味合いが強いということがこの記事を読んでよく分かった。本質安全に対する安全装置による安全(=機能安全)と考えると非常にすっきりする。

そして、安全は安全装置の設置という狭い考えではなく、システム全体を踏まえた包括的な安全性の実現を考える必要がある。

折しも、昨日今日とWOCS 2011(クリティカルソフトウェアワークショップ)が開催され、MITのナンシー・レブソン教授が基調講演に登壇された。その後、トヨタ自動車の川名氏、電通大の西氏、JAXAの片平氏も含めて、口々に「認証されたツールや部品を組み合わせることで安全を確保できると思ってはいけない」と語っていた。

なお、日経エレの特集記事を読んでいただければ分かるように ISO26262 は IEC61508の問題点をアンチテーゼとして、クルマドメインに合うようにかなりカスタマイズしている。

ISO26262がDIS(Draft International Standard)と呼ばれるドラフト段階のときに、「リスクの高いコンポーネントは形式手法を強く推奨する」という記述があった。これを見た、ツールベンダーや規格認証機関は「形式手法は絶対に使わないといけない」というニュアンスをクルマドメインの人たちに伝え恐怖をあおった。

ところが、FDIS(Final Draft International Standard)では、選択肢を複数に増やしてかつ、代替えの方法でも可という表現に変わっている。わざわざそうしたのは、ソフトウェア部品の信頼性を高めることがシステム全体の安全につながるかのような誤解が開発の現場に蔓延するのをなんとか防ごうとしたからである。

このように ISO26262 は IEC61508で指摘された問題点の多くを積極的に改善してきている。規格の策定委員の一人であるトヨタ自動車の川名氏は「選択肢が増え曖昧さが加味されたことによって骨抜きになったと思う人もいるかもしれない」とWOCS2011で語っていたが、そんなことはない。技術者が「安全を確保するのはどうしたらいいのか」「自分達がやってきた方法は安全にどれくらい寄与しているのか」と正面から考えるきっかけを作ったくれたのだ。

そうではなくて、形式手法を使えばよいとか、規格認証を取れたツールを使ったり、プロセス認証を取ったサプライヤーにソフトウェアを開発委託すれば、安全なシステムを作れるなどと考える者を減らすのを助けてくれたのだと考えて欲しい。

自分は、システムの安全を考えるときには、必ずどんなリスクを回避しようとしているのかを常に思い浮かべて欲しいと思う。例えばクルマなら次のようなことだ。

  • 衝突したのにエアバッグが開かない
  • 衝突回避のための超音波センサに泥が付いた。
  • パワーウインドウに子供の手や首が挟まった。
  • エンジンがオーバーヒートしたらどんなときにも止めていいか。
  • バッテリ切れのときにブレーキは働くか。

上記のようなリスクを回避するのに、形式手法やメモリ保護、カバレッジ100%のテストはプラスの効果を与えると思うが、安全を確保できているという確固たる根拠にはならない。安全を確保するには想定したリスクをどのようにして安全設計によって回避できるのかを説明しなければいけない。

ソフトウェアは電子部品のようにランダムな故障はしない。Systematic Failure (決定論的故障) といった問題の起こし方をする。想定しきれなかった、テストしきれなかったバグによって問題は起こる。そのようなバグを完全にゼロにすることはソフトウェアの場合困難であると認識しつつ、ハザードが発現しないためにはどうしたらよいのかを考え、できるだけ完全に近づけようと努力する。

日本のソフトウェア技術者は世界でも最高レベルの品質を持つ製品を世に送り出してきたのだから、なぜ、それができたのかをよく考えて、その強み・ノウハウを殺すことなく、グローバルな世界に対して説明責任も果たせるようにならないといけない。

規格の翻弄されるのではなく、自分達が安全を実現するためにやっていることを規格を使ってどうどうと説明するにはどうしたらよいかを考えればよい。

NHKの「就職難をぶっとばせ!」を見て

2010年12月25日クリスマスの日にNHKで『日本の、これから「就職難をぶっとばせ!」』という2時間の討論番組がオンエアーされた。

もちろん、超氷河期と言われる就職活動がテーマなのだが番組を見終わって、これは学生の就職という限れれた範囲の問題ではなく、日本の社会全体の問題だと思った。学校で何を教えるのか、企業はどのように人材を採用し、そして社会はどのように人材を流動させる必要があるのかといった社会構造の変革時期に来ているということがよく分かった。

番組は三宅民夫アナウンサーが進行役で進み、就活中の学生(内定あり、就職のための留年を決めた人、既卒者など)や、経営者、人事担当、高校の先生、就職した先輩などが集まっていた。

ゲストは、下記のような方々で、勝間さん、海老原さん、宮本教授がそれぞれの持論を披露し、それについてディスカッションをした。

文部科学副大臣鈴木寛,株式会社クラレ代表取締役会長…和久井康明,東京大学大学院教授…ロバート・キャンベル,経済評論家…勝間和代,株式会社ニッチモ代表取締役海老原嗣生放送大学教授…宮本みち子

勝間さんは次の2点を主張していた。

1. 日本の企業は新卒一括採用をやめて、アメリカのように不定期にエントリーレベルから採用したり、インターンシップによる採用をすべきだ。
2. 企業が社員を解雇しやすくする(=もっと人材を流動しやすくする)ように、セーフティネットを準備し、解雇された後の職業訓練や雇用手当を充実させる。

議論の中で重要だと思ったのは、日本の企業が新卒一括採用をする際のメリットについてである。企業側は新卒一括採用によって、新入社員研修をまとめて実施することができ、かつ、「同期」の意識を高めることで、同期同士での助け合い、競争、情報の共有といういろいろなメリットが生まれるということだった。ようするに企業は新卒一括採用によって新入社員教育のコストを抑えることができるということだった。

しかし、考えてみればアメリカのエントリーレベルのプログラマなどは年収200万円くらいだと聞く。そんな低賃金で雇えるのならば、不定期に個別トレーニングを受けさせてもコストアップにはならないだろう。

問題は、日本式で何十年もやってきた日本の企業がアメリカ式の雇用スタイルには簡単には変われないということだろう。司会の三宅さんは、番組の最後の方で「我々団塊の世代は、小中高大と学校を通り過ぎ、企業に就職して定年まで勤め上げるという、レールに長い間乗ってきた。今、このレールを降りなければいけない時代に来ているようだが、果たして降りられるだろうか。」と言っていた。

まさにそのとおり。日本人が高度成長期にやってきてうまくいっていたシステムを変えるためには、危機感がなければ変わるわけがない。右にならえでやってきて大きく失敗しないでここまでこれたのになんでシステムを変える必要があるのだと思っている経営者や人事担当は山のようにいるはずだ。

でも、いろいろな方面で日本が世界の一番でなくなってきた今、ひとと同じことをやっていてはグローバルな競争には勝てない。韓国や中国やインドの企業に負けて、仕事がなくなって今のポジションを守ろうと考える社員が多くなり、会社が潰れたり、合併されたりしてから問題に気がつく。

どうも、これまでの日本では周り同業他社を見渡しながら同じようなことをコツコツをやっていれば、なんだかんだいって売り上げは上がっていったらしいのだ。国全体が成長期にあったから、そうだったのだが今は違う。今は、日本の中でそんなことをやっていても、同業のアジアの会社には勝てないし、変化のスピードが早いので海外他社の成功を見てから真似しても間に合わない。その状況に日本人の多くが気づいていない。別な番組で、日本にいると SAMSUNG の驚異はあまり感じないが、東南アジアや中東、南米などに行くと明らかにSAMSUNGの台頭に驚くという。日本の平和ぼけは経済においてもボケのようだ。

新卒一括採用という制度は護送船団のように見える。人事部門は他の会社がやっていることを真似していれば大きな失敗もなく、経営者から怒鳴られることもない、学歴で学生を選ぶからひどい人材を採用する危険性も低いが、飛び抜けてユニークな大きな組織貢献をする可能性のある人材の採用もできない。そこから脱することもできるはずなのにみんなが周りを見渡して顔色を伺っているから、だれも動かない。

もう一つ、人材コンサルタントの海老原さんは、学生や親は大企業ばかりに目を向けないで、世界でも有数の技術を持つ中小企業などを探しなさいと主張していた。中小企業が学内でちょっとした飲み会のスポンサーになって、学生と直接話しをする機会を設けたらどうかという話しもしていた。マスコミを通すと中小企業の良さが伝わらないから、直接話しをする機会をできるだけ多く作ろうとう提案だ。

実際、今の学生は大手指向が強く、自ら狭き門に殺到している。従業員数1000人以下、300人以下という企業なら求人倍率は1倍を遙かに上回っている。

日本だけでなく、世界でのシェアも高い卵の選別をする機械を作る会社などは、せっかく採用したのに親に「そんな会社は聞いたことがないのでやめておきなさい」と言われ、内定を辞退する学生が少なからずいるらしい。だから、今では親子に対して会社の説明をする説明会をやるのだとか。

この問題提起に対するディスカッションで、大企業は安定しているし、何はともあれ就活サイトでは大企業の情報しか載っていないという話しがあった。優良な中小企業の情報自体が得られないというのだ。

コメンテーターから毎日新聞各紙を読んでいれば、中小企業の情報も入手できるという指摘があった。自分もそう思う。新聞だけではない、インターネットや業界のニュースサイトからだって情報は得られる。興味のある業界が特定されているのなら、業界新聞やその職種のひとが書いているブログを読むことだってできる。

今なら、PCの前に座って各方面の情報を探ればいくらでも情報は得られるのに、やっていないだけなのではないだろうか。誰かに情報の検索方法を教えてもらっていないから、他の学生はそんなことやっていないからしないのだろうか。

就活サイトという与えられた枠の中だけでしか情報を探していないのではないだろうか。これも右にならえ症候群の影響だろうか。

討論会の中で、就活学生はリスクについて考えた方がよいという話しがあった。大企業に就職した入社二年目の社会人の方がいて、同期が500人もいると自分がやりたい職種があっても希望どうりになる可能性は低い、大企業では会社に入ってからも競争が続くと言っていた。それが大企業のリスクだ。中小企業なら、社長と直接話しをする機会も多く、自分がやりたいことを主張すればその心意気を汲んでやらせてくれる可能性もある。英会話の能力を活かしたいと言えば、海外シェアの高い優良中小企業なら即海外営業担当になれるかもしれない。そこで自信がないと言うようではチャンスは巡ってこない。ただし、給料は安いかもしれないし、もしかしたらブラック企業かもしれない。それが中小企業のリスクだ。

どっちのリスクを取るのかだ。もしも、今自分が就活する学生なら、絶対に大企業のリスクは選択しない。ブラックでない将来性の高い中小企業を探して就職し、やりたいことを思いっきりやって、スキルが徹底的に伸ばし、もしも、その会社の器をはみ出しそうになるくらい成長したら、その実績を引っさげて別の会社に転職する。

討論会の中で悲痛の叫びを口にする学生さん達を見ていて思うのは、彼らは完全に「就職できないかも知れない」という恐怖におびえているということだ。そして、その恐怖を振り払うための方策として、受験勉強で使った方法を使おうとしている。

つまり、中学二年の間に中学三年生までの教科を終わらせて、中学三年生の期間は受験対策をする。大学1,2年から就職活動を開始し、4年生になったら面接のための塾に通ったりする。ようするに高校、大学の難関校を受けるときの戦略そのままだ。

企業には偏差値は付いていないから、よくコマーシャルや全国ニュースに出てくる大企業がいい会社だと考える。

この戦略の大きな間違いは、皆が同じ土俵で闘おうとしている点だと思う。共通テストや私立大学の入学試験は公正を期すために、できるだけ同じ土俵で学生達を闘わせようとしているが、企業は別に同じ土俵で闘う必要はないし、同じでないからこそ生き残れる世界もたくさんある。それなのに自ら競争相手の多い土俵に登りたがる心理が自分には理解できない。

一つは他の人が着目していないような優良な土俵を探すこと、つぎにその土俵で自分が勝つためには何をしなければいけないのかを考えることだ。どちらもひとと同じことをしていたらダメで、ひとがしていないことで自分のやりたいこととのオーバーラップを探す必要がある。日本ではそういう訓練はしてこなかったのだろう。

一昔前は大学への進学率は10〜20%。今では50%を越えている。昔は、大学は学問を学びたい者が行っていたのだが、今では大学は限られた若者がいくところではなくなっており、彼らを全部就職させるためには職業訓練的なこともしなければいけないというVTRがあった。

これに対して、大学がアカデミズムの立場を崩すのはよくないという意見があったが、東京大学大学院教授 ロバート・キャンベル氏が、どんな分野であれ、学び、議論し、改善を模索するという行為を大学で学び取ることができればムダではないと言っていた。自分はロバート・キャンベルさんの言うことが好きだ。50%が大学へ進学する時代なら、アカデミズムもあり、職業訓練もありにしなければ結局は不幸な学生がでてくる。

大学では何でもいいから勉強する対象を通して、深く掘り下げて考え、分析したり、理論を打ち立てたり、問題を解決する力を養って欲しい。

そして、変えなければいけないのは学生と親が持つ価値感だ。働くことの意味はなんだ? みんなが知っている安定した企業に就職することか?

20世紀の時代には大企業=安定の式はなりたったかもしれないが、21世紀ではまったく信用できないし、大企業のリスクも存在する。

「みんなと同じ」=「安心」「仲間はずれにならない」

という価値感はそろそろ捨てよう。親は子供に「友達と同じことをするな」「自分だけのオリジナリティを磨け」と言おう。みんなが黒のスーツを着ていたら、自分だけはグレーにしてみなさい。「なぜ、君はグレーのスーツなのか?」と聞かれたらラッキーじゃないか。

ひとと違うことを突き詰めるのは「自分にはムリ」と言うのならば、職業訓練をしよう。学生のうちに、企業が興味を持つ分野のエキスパートになってしまおう。それが自分の好きなことと一致していればそれに越したことはないが、絶対にイヤだというわけではないのなら、何かの道を選んで一流と言われるまでスキルを高めてみたらいい。

日本の、これから「就職難をぶっとばせ!」』を全部見て一番バカだと思ったのは、世界のトップシェアの中小企業に内定をもらっていながら入社を辞退した学生とその親だ。

本当にその親の顔を見てみたいし、「聞いたことがない会社だから」という理由で断った学生も親も親なら子も子なのだろう。

番組キャスターの三宅さんも言っていたがこの問題は就活学生だけの問題ではない、今一度我々は自分自身に「何のために働いているのか」という疑問を問い掛けてみる必要がある。

そして、その答えと今の社会のシステムにズレがあるのなら、未来の日本をしょって立つ若い人たちのために変える行動をしなければいけない。批判したり、評論したりするだけではだめだ。何かしらの行動をしなければいけない。

行動できなければ、それはひかれたレールから降りられないということだからだ。だれもレールから降りないのなら、さびれたレールは残り続け乗客はいなくなり廃線になるだけだ。

さしあたり、自分ができるのは学生向けにこのブログを通して情報を発信して「みんなと同じ」症候群から脱出する方法を授けることかな。

やっぱり手帳がいい

sessamian2010-12-05

斎藤孝氏の著書『15分あれば喫茶店に入りなさい』には、喫茶店に持ち込んではいけないものとしてノートパソコンが挙げられているそうだ。

茶店の15分間という時間と空間を作るとアイディアが生まれるという。生まれるというよりは、アイディアを生むための時間を作るということだろう。

時間と空間を作るのなら家でも同じと思うかも知れないが、家には考え事をさせないような誘惑がたくさんある。喫茶店に入ってしまえばコーヒーを飲む間の時間は他のことはできない。

アイディアというものはふと思いついて覚えておけるだろうと思っていても、数時間もすれば忘れてしまうものだ。ということで自分はいつも手帳を持ち歩いている。

そもそも、PDA として SONYCLIE を持っていたのだが、SONYPDA市場からの撤退という裏切りとともに結局 PDA は使わなくなってしまった。 CLIE を使わなくなってから、もう一度原点に戻って手帳に切り換えた。この手帳にしてからもう5年になる。

今は iPod Touch があるけれど、これは手帳の替わりにはならない。ふと思いついたアイディアをささっと書き留めるには手帳が一番だ。この手帳を選んだ理由はカレンダーとノートだけのシンプルな作りで、透明のジップ付きのカバーにペンを入れられるからだ。値段も\1000円以下。毎年この時期になると東急ハンズに来年の手帳を買いに行く。

ただ、カレンダーは google カレンダーで情報をクラウド上に共有できるため iPod touch のカレンダーを使うようになった。でも、アイディアを書き留めるノートとしての機能は手帳にはまだまだ勝てない。

いろいろな電子機器を使うようになった今でも手帳は手放せないし、毎年来年の手帳を買いに行くということも考えようによっては楽しいことだ。

P.S.

SONY には CLIE では裏切られたが、薄型テレビの BRAVIA では感心している。起動時間が早い。Linux の立ち上がりには時間がかかっているがテレビを見るだけなら Linux の起動に関係なくすぐに見える。

同様にブルーレイディスクレコーダーの起動も「パッと起動!」とCMで強調している。ユーザーが本当に求めていることカタログスペックには出にくいことに着目して実現してくれた。今のDVDレコーダーの起動時間も遅くてうんざりしている。次に買い換えるときは SONY の Blueray にしようと思う。

新人と就活

今年の新人達がプレゼンするのを聞いた。ものすごくうまい。本当に信じられないくらいうまい。最近は個人情報ということで、どの大学の何を専攻してきたのか、学卒か院卒かも公開されないからプロフィールがまるでわからないが、プレゼン慣れしているのは確かだと思う。

あまり人前であがらないというのは現代的な特徴かもしれないが、観客が自分をどのように見ているのかを客観的に把握できているように見える。

就活で鍛えたのだろうか? 最近の就職は非常に狭き門となっているらしく就職を控えた学生の諸君は大変だという話しをよく聞く。

内定の出ない学生は何が間違っているのか〜学生、企業、大学、親がすれ違う悲惨な現状』を読めば大変な現状が分かる。

しかし、日本の企業はどうして「新卒」にこだわるのだろうか。これまでずっと同じシステムでやってきたから、いまさら変えることに不都合があるのか。能力主義成果主義に切り換えたといいながら、実は年功序列が実態なので新卒という枠を外すと問題が生じるのだろうか。

日本の企業は大学、新卒とう枠を設けることで、自分達が欲しい人材がどのような人間であって欲しいか考えることから逃れていると思う。

ようするに新卒であれば世代という観点では同じ評価指標で考えられる。その土俵で人選すれば選びやすい。ところが、新卒という条件を外したら、もっと評価指標が増えるし、また、どのような人材を求めているのかをもっと明確にしなければいけない。

その組織にあった人材ということだけではなく、今、不足している、これから始めようとする事業に有効な能力、ポテンシャルを持った人材を選らばなければいけなくなる。というよりは選べるようになるのだ。

キャリア採用と似ているが、キャリアは十分ではないだろうから、人材を必要とする事業やプロジェクトに投入する際にポテンシャルの高い人を探さなければいけない。今まで以上に人事部門が事業部門と情報を共有し、どんな人材が必要か常日頃からディスカッションしておかねければいけない。

新卒しか採用しないのは、人事部門が新卒という枠でしか技術者を評価できないからではなだろうか。

その組織に、その事業に、そのプロジェクトに必要な人材がどのような者か、どのようなポテンシャルを持っているべきかを考えられるようになれば、新卒にこだわる必要がない。

ちゃんとそのコンセプトを示し、いろいろな経験をした広い範囲から人材を選べるはずだろう。

プレゼンがうまいのがもしも就活のために訓練したのであれば、それもよいが、エンジニアとして組織が求めているポテンシャルが高いのかどうかはそれだけでは分からない。

就職する側の企業が変われば、大学の姿勢や受験も変わるのではないかと思う。現在の就職状況では、一芸に秀でた人材が埋もれてしまわないか、日本ではチャンスは新卒の一回しかないのかどうか心配になる。

ソフトウェア品質を高く保つには哲学が必要

前回の記事『商品リスクを低減するには哲学的思考が必要』に関して、もう一回同じようなことを書いた文章がありますので、ご一読ください。

誰がどこに書いた文章かはご想像にお任せします。

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明治大学理工学部に向殿政男先生という方がいます。

著書のひとつ『安全設計の基本概念』

向殿 政男
1965年明治大学工学部電気工学科卒業。1967年明治大学大学院工学研究科電気工学専攻修士課程修了。1970年明治大学大学院工学研究科電気工学専攻博士課程修了。明治大学工学部電気工学科専任講師。1973年明治大学工学部電気工学科助教授。1978年明治大学工学部電子通信工学科教授。2005年経済産業大臣表彰受賞(工業標準化功労者)。2006年厚生労働大臣表彰受賞(功労賞)。明治大学理工学部情報科学科教授。明治大学理工学部学部長。明治大学大学院理工学研究科委員長。ISO/TC 199国内審議委員会委員(元主査)。安全技術応用研究会会長。機械の包括的な安全基準に関する指針の改正のための検討委員会委員長。次世代ロボット安全性確保ガイドライン検討委員会委員長ほか(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

その、向殿先生が、日経ものづくり 8月号 で日本のものづくりの歴史的背景を次のように語っています。

【日経ものづくり 8月号 特集 ソフトが揺さぶる製品安全より引用】
信頼性一本やりでは厳しい

明治大学理工学部情報科学課教授の向殿政男氏によれば、そもそも日本の企業は、信頼性を高めることで安全を確保しようとする傾向が強いという。しかし、前述の流れに従えば、そうした考え方は特に修正を迫られることになりそうだ。

「信頼性を高めることで安全を確保する」とは、製品を構成している個々の要素の信頼性をひたすら高めることによって、異常事態が発生する可能性をゼロに近づけようとする考え方である。構成要素に故障がバグがあることは前提としないので、これは「フォールト・アボイダンス」と呼ぶ考え方だといえる。

日本の企業はこれまで、この考え方で実績を積み上げてきた。「日本製品は壊れにくい」という評価は、まさにこのフォールト・アボイダンスを追求してきたたまものといえる。もともと日本の製造業は、欧米で確立された製品の改良設計で成長してきたという経緯がある。製品全体のアーキテクチャが所与の中、改良設計という形で信頼性を高めることに力を注いできたのは、ある意味必然だった。

さらに向殿氏は、信頼性は定量的・純技術的な概念であり、技術者にとって扱いやすい指標だったことも、日本の企業がフォールト・アボイダンスに傾倒した理由に挙げる。「安全を定義するには、社会が許容するリスクとは何かといったことも考えなければならないので、どうしても哲学的な判断が必要になる。それに比べると、信頼性は技術者にとってとっつきやすい概念だった」(同氏)。

だが、ソフトの役割が増すにつれ、フォールト・アボイダンスだけで安全を確保するのは厳しくなってきた。前述の通り、ソフト自体の信頼性を高めるのが困難な上、ソフトやハードといった構成要素同士の関係も複雑になっていることから、構成要素の故障やミスを認めない前提そのものに無理が生じているのだ。

そもそも信頼性(壊れにくいこと)と安全は全く異なる概念である。だが、前述のような経緯から、信頼性を高めることと安全を確保することがほとんど同じ意味になってしまっていたのである。
【引用終わり】

この「今後の安全設計には全体最適の発想が必要であり、安全を定義するには社会が許容するリスクとは何かを組織が考えなければならず、そのためには哲学的判断がいる」、というところに強く共感します。

ようするに、ユーザーリスクとその対策は考えれば考えるほど際限がないので、コストや開発時間とのトレードオフでどこまでやるかを決断しなければならず、その決断をするためには安全や品質に対する哲学が必要だということです。

安全や信頼を実現している「当たり前品質」は、カタログやスペックシートには現れないため、長い間商品を使ってもらったときにお客様から伝わってくる「品質がいいね」という感想や、クレームの少なさなどでしか表面に現れてきません。

クリティカルデバイスではそこが命でもあるので、技術者は当たり前に出来ていることの重要性や、リスクを軽減する対策の大切さは言われなくても分かっていました。

それが、近年、リスク分析の結果や取扱説明書を見ていると、表記上の対策で禁忌・禁止事項として書いておけば、設計上の対策はいいやという技術者が増えてきたようにも感じています。そうなってきた理由のひとつは商品が実際に使われる現場の現実を知らない技術者が増えてきたからでもあります。

これだけ複雑化してしまった製品ソフトウェアに対して、安全に対して哲学を持ってどこまでやるかを決断しなければならなくなっているのです。逆に言うと製品の品質や安全に対して無知であったり、哲学(ポリシー)がない技術者が作る商品、ソフトウェアは危険であると言えます。

そして、技術者に哲学(ポリシー)があっても、組織の上位層に安全や品質に対する哲学がなく、商品のリリースの時期だけを何とかしろと言い、技術者の哲学(ポリシー)がポキッと折れてしまったり、考えてもどうにもならず辛いので考えないようにしている人はいると思っています。

簡単に言えば次のような質問に間髪入れずにはっきり答えられる技術者が少なくなってきていると思うのです。

・自分の商品の品質に自信があるか?
・自信の根拠は何か?

これらを聞くと怒り出す技術者はまだましで、しれっと「自分の守備範囲ではないんで」などと言う人が出てきたらもうおしまい。

そういう人たちで構成された組織において、製品の信頼や安全はプロセスや組織的システムのみで確保しなければならず、そのためには責任と権限が明確な組織的階層構造と徹底的な設計管理が必要です。

そうでない、プロセスやシステムだけで日々の仕事をやっているんじゃない組織において、もし、安全や信頼について自信をもって答えられる技術者、管理者が少なくなっているのだとすると、機器やサービスの安全や品質に対する哲学が個人個人に対しても、プロジェクト、部門にも必要です。

安全や信頼に関する哲学が、すでに組織の中に醸成されているのなら、職制で指揮命令するだけで高品質を維持できるかもしれませんが、安全や信頼に関する哲学が醸成されていない、廃れてしまったのなら意識改革から始めなければ高品質は達成できないと考えます。

これはロジックではなく、哲学やポリシーの問題です。なぜなら、当たり前品質という見えない品質を実現するために、どこまでやるかは常に自分との戦いであり、他人から言われた通りにするだけなら、納期のプレッシャーに負けて、品質は低い方向に傾くからです。

「開発が遅れているかどうか」を聞くのもいいですが、それと同じかそれ以上の熱意、頻度で「自分の商品の品質に自信があるか?」と問う人が増えないと高品質を維持していくのはムリだと思います。

以上